山田さんの tea time

大切なものを大切にする シンプルライフをめざしたい♪

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良かったと思える日常を積み重ねる。最後の瞬間を大切に

最後の瞬間って、生きている間に何度も訪れるのですが、これが最後と思って迎える最後は、意外と少ないような気がします。

いつの間にか大きくなった子供。

毎日のように抱っこしていたのに、最後に抱っこして散歩したのはいつだったかな。

仲良かった友達と、いつの間にか連絡が途絶えてしまって、最後に笑顔を見たのはいつだったかな。

・・・なんとなく訪れた最後。

 

あがらえない、最後のお別れもあります。

 

最後になるとわかっている時の、別れの瞬間。

振り返ると、あれが最後になるとは思っていなかった、別れの瞬間。

 

思い出は、心の中で力を与え続けます

様々な最後の形と、私なりの、最後との向き合い方について書きました。

良かったなと思える最後を、少しでも多く積み重ねていけたらな、と思います。

 

 

何気ない日常の中にある、小さな幸せ

何気ない日常は、何気なく過ぎていくけれど・・・、

 

振り返った時に、

幸せで胸が切なくなるような、素晴らしい瞬間は、

私の場合、何気ない日常の中にあったりします。

何気ない幸せ
  • 母が運転する車に乗った。今よりも若い、母の記憶。
  • 長男が、赤ちゃんだった頃、抱っこをして散歩した記憶。

母が運転する車に乗った。今よりも若い、母の記憶

私がふと思うのは、実家の母が運転する車に乗ったのはいつが最後だったかな、ということ。

現在実家の母は、自由に動かなくなった指があることもあり、車の免許を返納し、自動車の運転をしなくなってしまいました。

母のひょろひょろとした自転車の運転を見たのも、いつが最後だったかな。

それぞれの自転車に乗り、私はいつも母の後ろを走りました。

母は自転車に乗るのがあまり上手ではなくて、心配だから見守るために、私は後ろを走っていました。

だから私の記憶の映像は母の心許無い自転車をこぐ後ろ姿です。

 

思い出そうと遡っていく時間の中で、私は少し若返っています。

記憶の中の母も若くなっています。

 

忘れるくらい前のことだから、時間を特定することはできないのですが・・・、

愛おしくて、幸せな記憶です。

長男が、赤ちゃんだった頃、抱っこをして散歩した記憶

現在9歳の長男は、私のあごの辺りまで背が伸びました。

今では長男を持ち上げようしようとしても、子供の頃のように軽々というわけにはいきません。

 

ふと、長男を抱っこしながら散歩をしたのは、いつだったかなと思いました。

 

抱っこ紐で抱っこをすると、体が密着するのでとても暑いです。

 

暑いけど、あたたかい。

ぬくもりが愛おしい。

 

長男は成長して体が大きくなり、自分の足で歩いて、自分の足で走って、いつの間にか抱っこ紐は使わなくなってしまいました。

 

お散歩が大好きな長男は、ぐずっている時に抱っこ紐を見せると、ぴたりと泣き止んだものでした。

もちろん、その後、ちゃんとお散歩にも行きました。

 

赤ちゃんだった長男の、密度の少ないふわふわとした髪の毛を鼻先に感じながら、一緒に散歩をしたのは、幸せなひとときでした。

 

 

最後になるとわかっている時の、別れの瞬間

最後の瞬間の中には、最後だとわかっていて迎える、最後もあります。

分かっている最後
  • 遠くに引っ越すことが決まっていて、距離ができたらもう会うことがないだろうという時。
  • 命が旅立つ時。

これが最後だと分かっていて別れる時、

相手の表情や、自分の感情も記憶に残っていて、

記憶を呼び起こすと、胸がギュッとなるような、感情も蘇ります。

 

とてもリアルで、あたたかくて、せつなくて。

共に過ごした時間に感謝をしたくなるような、瞬間です。

遠くに引っ越すから、もう会うことはないだろう

私は東京を離れる前に、職場の後輩と見た、真っ赤な夕焼けが目に焼き付いています。

後輩と会った最後の日の前日、

後輩の美術工房に行って、絵を描いたりして遊び、夜はバーベキューをしてそのまま工房に泊まりました。

 

後輩は私と出会った職場以外に、高校で美術の非常勤講師をしていて、空間芸術の芸術家でもありました。

彼女の工房は広くて自由で、とても楽しい空間でした。

 

工房の帰り、

後輩と一緒にバスを降りて少し歩いたら、左側に開けた景色がありました。

 

これほど見事な赤を見たことがないというくらい、鮮やかな赤のグラデーションが広がっていて・・・、

お別れのせつなさと感謝が、溢れるように込み上げました。

 

2人でしばらくの間、夕日を眺めていました。

この景色を、忘れることはないだろう、と思いました。

 

今でも振り返れば、感情を焼き付けた写真のように、夕焼けの赤とせつなさが交錯した景色が蘇ります。

今生の別れ

私は娘と別れる時、信じたくなかったけれど、今が最後かもしれないと、思っていました。

最後かもしれないと思っていたからこそ、できたことがありました。

 

私の指を握る娘の手を力を感じながら、ずっと見つめ合っていました。

 

「愛してる。生まれてきてくれてありがとう。」

「会えて幸せだった。」

と伝えました。

 

娘の手から力が抜けて、眼球がぐらっと揺れて、目がうつろになる瞬間まで、

何度も繰り返し繰り返し、愛してる、ありがとう、と伝え続けました。

 

本当は、別れが寂しくて寂しくて仕方なかったけれど、

本当は逝ってほしくなくて、待って、逝かないで!と言いたかったけれど、

 

娘に、ママを悲しませたと思ってほしくなかったから。

自分が生まれて、自分が旅立つことで、ママを悲しませることになったと思ってほしくなかったから。

 

会えて幸せだったと伝えました。

ママは不幸になんかなっていない。

あなたは私を幸せにしてくれた人だよと。

 

そういう時間を与えられたことに、感謝をしています。

最後になるとは思っていなかった、別れの瞬間

時には、まさかあれが最後だったなんて、という別れもあります。

 

大切な誰かと、連絡が取れなくなった時かもしれません。

大切な誰かが、思いがけず、旅立った時かもしれません。

ひょっとしたら、自分が突然、この世を去った時かもしれません。

 

近所に40代の夫婦がいて、旦那さんが職場の事故で亡くなりました。

 

奥さんが言っていました。

 

「病院に駆けつけたら、意識が無かった。」

「一度も意識が回復しないまま、逝ってしまった。」

 

「いつものように、いってらっしゃい、いってきます、って言って出ていった。」

 

「まさかそれが最後になるなんて、思わないやんか!」

 

何気ない会話。

交わした目線。

後ろ姿。

 

最後まで普通に過ごして訪れる突然の別れと、

少しずつ大切な人の命の灯が弱っていくのを感じながら毎日を過ごし、訪れる別れ。

どちらがいいかなんて、私にはわかりません。

 

ただ、

大切な誰かとの最後の記憶が、少しでも優しくありますように。

・・・そう、思います。

日常生活の中で、見送る瞬間に、心を籠める

私が心がけているのは、その場を去る瞬間や、送り出す瞬間は、心から頭を下げるようにしています。

 

それでは失礼しますと、向かい合ったその瞬間に、

一瞬でも心からの感謝を籠めて、

「今日はありがとう。」

 

そうすると、なぜか自分が落ち着いたり穏やかな気持ちになったり、籠った愛で、平和になります。

 

心を籠めることを、忘れてしまうこともあるのですが、そういった時は、「しまった。」と、残念な気持ちになっています。

 

ケンカをして別れたり、

目を見ることもなく、何となく送り出してしまう別れは、心の中に寂しさが残ります。

さいごに

様々な最後について書きました。

日頃の生活を、丁寧に。

思い出した時だけでもいいから、見送る瞬間に心を籠められたらと思います。

 

何気ない日常に、ありがとう。

 

良かったと思える日常を、積み重ねることができたら、明日は今日よりも少し、幸せになっているような気がします。