
毎年10月9日~10月15日は流産や死産などで亡くなった赤ちゃんと家族の為の国際的な啓発週間だそうです。
私は知らなかったのですが、
『クローズアップ現代』の『亡くなっても大切な命』というテレビ番組で初めて知りました。
録画して後から見ようと思っていたのですが、見たら辛くなるかなと思い、なかなか見ることができないまま時が過ぎ・・・。
15日ほど過ぎたある日、
日中洗濯物を畳んでいたら、急に見てみようと思えてきたので、見てみました。
番組は、
流産や死産、生後間もない内に子供を亡くしてしまった親の苦しみや、日常生活を取り戻す大変さ。
周囲の理解。
また、周囲の人たちから見た子供を亡くしてしまった親との関わり方について話がされていたかと思います。
録画を見た時にはすでに啓発週間は終わっていたのですが、私も生後43日で娘を亡くしているので、その時の経験について書いてみようと思いました。
- 生後43日。娘との別れ
- 書けない死亡届
- 赤ちゃんが頑張って全力で生きたことを知ってほしい
- 出産祝いを返金する
- 49日の壁
- 娘がこの世に存在した証人
- 人の楽しい歌声やダンスが耳から遠のく。体が動かない
- 記憶ができない。メモしたことも忘れてしまう
- 小さな子供連れの家族を見るのが辛い
- 子供との出会いを私の不幸にしない
- いつかまた会おう
- さいごに
生後43日。娘との別れ
娘は心臓に疾患を持って生まれてきました。
担当医師からは、
「それほど難しい手術ではない。」
と、言われていたのですが、手術が上手くいかず、術後1ヶ月で亡くなりました。
人工心肺装置を外す判断をされたのです。
娘は命の灯火が消える瞬間まで私の目を見つめていました。
力いっぱい私の指を握りしめていました。
今思えば、こうしてしっかりと送り出すことができた私は、幸せだったのだろうと思います。
病院から子供を抱いて自宅に帰りました。
子供は出産した病院から、大きい病院に救急車で運ばれ、生まれてからずっと病院で過ごしていたので、初めての帰宅でした。
書けない死亡届
死亡届やら火葬に関する書類やら、いろいろ書かなくてはならない書類があったのですが、私は何もできませんでした。
娘の死亡届にサインをするなんてとてもできない。
娘の死を、受け入れられていなかったのだと思います。
葬儀の手配と合わせて、すべて夫がしていました。
赤ちゃんが頑張って全力で生きたことを知ってほしい
お通夜を迎えるまで娘は家の布団で眠っていました。
私は自分の知人友人ママ友に連絡をして、娘に会いに来てほしいとお願いをしました。
みんな会いに来てくれました。
私は、会いに来てくれたみんなに、娘が病気と闘ってとても強かったこと、とても立派に生きたこと、とても可愛らしかったことについて話しをしました。
みんな真剣に話を聞いてくれました。
娘は確かに生きていた、ということを、みんなに知ってもらいたかったのです。
周りの人たちも、自分に子供がいたりして、子供の死を目の当たりにするのは辛かっただろうと思いましたが、会いに来てくれたことに、とても感謝をしています。
様々な考え方。辛らつな言葉
中には、
「赤ちゃんだから自分の意志はない。」
「早く死なせてやればよかったのに、親のわがままで生き永らえさせて。」
「どんな障害が出るかわからない。これで良かった。」
と言ってきた親族がいました。
一時は憎しみに身を焦がしましたが、今は憎しみ0です。
いろいろな考え方をする人がいるな~。
と、いう程度です。
その人にとっては当たり前のことだから、話すのでしょうね。
・・・ただ、
苦しくて心が限りなく弱っている時に、あまりに温度差が大きいことを言われてしまうと、深く深く心に刺さります。
簡単に抜けないくらいに深く、溶かすには時間がかかります。
周りの人の言葉。苦しんでいる人に、どう声をかけるのが正解なのかわからない
深く傷ついている人や落ち込んでいる人に言葉を届けるのが難しい時は、ただ黙ってそばにいるだけでもいいのかなと思います。
励ましの言葉も、関係のない話ばかりする人も、ただそばにいてくれるだけの人も、
その人が、私と娘と私たち家族のことを思ってそうしてくれているのだなということがわかれば、心に届いていました。
出産祝いを返金する
娘は生まれていたので、周囲の人から出産祝いをいただいていました。
でも亡くなってしまった。
出産祝い、
そう、生まれているのだから、赤ちゃんの誕生を祝ってもらったっていいのでしょう。
だけど、その時の私は、出産祝いを返金することを選びました。
みなさんに出産祝いを返すのは、むなしかったです。
暗くて、心が動かなくて、無、でした。
49日の壁
私は自分がタフで、たくましい方だと思っていました。
だけど、娘の死は、ダメでした。
何をどう考えても、自分が立ち直る方法が見つからない。
立ち直るビジョンも見えない。
この世が別のものになってしまったかのように、息をするのも苦しい。
苦しいばかりで、苦しい以外、何も感じない。
自分はいつまで生きるのか、死んだら会えるのか、そんなことを繰り返し考えてしまう。
喜怒哀楽が抜け落ち、ただ苦しい、そのことしか感じられなくなっていた時、近所の人が、
49日を過ぎたら、少し楽になる。
と、話してくれました。
その人は数か月前に旦那さんを亡くしていました。
そんなまさかと思いましたが、
49日を過ぎたら本当に少し苦しみが楽になりました。
近所の人も、他の人から同じことを言われて、私のように、49日で違いを感じたそうです。
どうしてなのかはわかりませんが・・・。
娘がこの世に存在した証人
葬儀が終わり、少し落ち着いた頃、家を出ることが増えてきました。
私のお腹が大きかった頃を知っている人に会うと、
「赤ちゃんは?」
と聞いてきます。
出産と赤ちゃんの健やかな成長を疑っていないから、嬉しそうな顔で話しかけられます。
娘が亡くなったことを話すのは気が引けましたが、娘がこの世に存在したこと、
短い時間だけど一生懸命生きたことをあやふやにはしたくないと思いました。
娘が生きるために闘ったことと、とても輝いて亡くなっていったことについて話をしました。
亡くなったことを知ると、
「聞いてごめんなさい。」
と言われることもありましたが、
私は、
「聞いてくれてありがとう。」
と言いました。
私の娘がどのように生きたのか、話しができるのは幸せでした。
少しでも多くの人に、娘の命がこの世に存在したことを伝えたいと思いました。
人の楽しい歌声やダンスが耳から遠のく。体が動かない
私には上の子供がいました。
まだ未就学児です。
娘を亡くして落ち込んでいても、私は長男の親でもあります。
少し苦しみが落ち着いたと思い、
長男を連れて子供支援センターに行きました。
手遊びや歌やダンスがあります。
みんなで円になっていつものように歌って踊ります。
楽しそうな声が響きます。
楽しそうであればあるほど、私がいる位置とはかけ離れていくのを感じました。
私は楽しくない。
歌っても、踊っても、全然楽しくない。
むしろ自分の心との距離を感じて、ショックを受けました。
歌いたくないし、踊りたくない。
何も面白くない。
私は少しも面白くない。
私は歌うのも、踊るのもやめました。
それからしばらく、支援センターには行かなくなりました。
私はまだ苦しい。
苦しいのに、無理していく必要はないと思いました。
記憶ができない。メモしたことも忘れてしまう
私や子供のことを気にして、連絡をしてくれる人がいます。
会う約束をします。
でも忘れてしまいました。
直前にラインをくれる場合はまだいい。
私の家に遊びに来てくれる約束ならまだいい。
だけど、外で会う約束は、どうにもなりませんでした。
最初はうっかりしているのかと思いましたが、異常なほど、記憶をしておくことができなくなっていることに気がつきました。
メモしておけばいいと、メモをしますが、メモしたことも忘れてしまいます。
メモを見ることも忘れてしまいます。
2回ほど約束を忘れて、人と約束をすることをやめました。
会う約束をしなければ、約束を忘れてしまうこともありませんから。
小さな子供連れの家族を見るのが辛い
家族で買い物に行った時に、エレベーターで、小さな兄弟がいる家族と一緒になりました。
私だって、本当なら今頃赤ちゃんと長男と一緒にエレベーターに乗っているのに、どうしてうちにはいないんだろう。
と、苦しくなりました。
娘と同じくらいの子供を連れている家族を見ると辛くなりました。
どうして、
どうしてうちは、
どうしてうちなのか。
羨ましい。
苦しい。
辛い。
なんで。
このような気持ちは、いつまで続くのだろうと、苦しくなりました。
子供との出会いを私の不幸にしない
子供を失って辛い。
会えなくて辛い。
寂しい。
悲しい。
・・・だけど、
会えて嬉しい。
愛せて嬉しい。
心から愛してる。
一生忘れない。
忘れようとしても忘れられない。
私がおばあちゃんになって死ぬ時が来たら、きっと思い出す。
亡くなった娘のことを思い出す。
とても輝いていた娘のことを。
あんな素晴らしい出会いを、不幸にするわけにはいかない。
娘との出会いを、悲しかった出来事にはしたくない。
私は娘と出会えて幸せ。
もう少し一緒に生きたかったけれど、この素晴らしい出会いを、私が悲しい出来事にするわけにはいかない。
娘に、私を不幸にしたと思ってほしくない。
私はあなたと出会えて幸せ。
幸せだったよ。
私は娘との出会いを、あたたかくて心がふわっと軽くなるような、そういうものにしたいと思いました。
いつかまた会おう
何度も、
もう大丈夫。
というのを繰り返しながら、
本当に大丈夫になっていきました。
お通夜の前に、おばあちゃんが会いに来てくれて、
「早く諦めな。」
と言いました。
諦めるという言葉の意味が分からなくて、意味が分かったのは、
本当に諦められた時でした。
あの時こうしていれば、この時こうしていれば、そんな風に考えている間は諦めていませんでした。
ずっと自分が大変だと思っていましたが、思えば、短く太い人生を生きた娘の方が大変だったのかもしれません。
あの世に行ったら、何をするのでしょうね。
死んでからも忙しかったりして。
私が娘を思い、泣いているのを見たら、娘も自分の道に旅立ち難くなってしまうのかもしれません。
親離れ、子離れが早まったのですね。
少し早すぎたような気もしますが。
愛している気持ちは変わらない。
手離したって変わらない。
離れたって変わらない。
もう先に進んでね。
いつかまた会おう。
号泣して、そう思ったら、なんだかすっきりしました。
愛してる。
またどこかで会おう。
さいごに
『クローズアップ現代』の『亡くなっても大切な命』というテレビ番組で、
毎年10月9日~10月15日は流産や死産などで亡くなった赤ちゃんと家族の為の国際的な啓発週間だということを知りました。
私の場合、生後43日で娘と別れているので、流産や死産ではありませんが、自分の経験を通して、死別してから考えていたこと、感じていたこと、立ち直るまでのことを書きたいなと思いました。
娘を亡くしてからしばらくの間、人から
「なんて声をかけたらいいのか。」
「どんな言葉が正解なのか。」
「逆に傷つけてしまったらどうしようかと思うと何を言ったらいいのか。」
と、言われることが多かったのですが、
私の場合は、相手が私のためを思って言ってくれていると感じる言葉なら、どのような言葉になっていても、ありがたく、嬉しく感じました。
元気にしています。
今まさに暗いトンネルの中だったとしても、いつか暗闇に光が差し込みますように。


















